この子らを救わん 愛の「おぎゃー献金」物語
幼い私にとっては 、 あまりにツョッキングな出来事だったのです。そのとき以来歩みつづけている今 の 道に 、 私は一度も迷うことなく生きてきました。 さて 、 かの西郷南州翁の I f 敬天愛人 I I をモットーとした福山中学校の敬天塾で育成された私は、そ の後 、 東京医専 (現在の東京医大)に入り 、 念願の医師免許を手にしました。昭和六年のことです。 そして都立大塚病院に勤務後、早稲田鶴巻町で開業して一人立ちしました。もちろんこのと きは 、 生 涯をずっとこのまま東京で暮らすつもりでした 。 それがなぜ大口市に……はごもっともなことです 。実は 私 の医院が軍の計 画道路に引 っかかる こと になり 、 立ち退きを迫られたというのが、大口市 に移るきっかけだったのです。都 内 の外の代替地で もむろんよかったわけですが 、 このころにはすでに都内 でもあちこち空襲を受けるようになって 、危 険が感じられていました 。そ こで思い切って、当時、妻が疎開していた大口市へ引 っ 越す決意をした のです。それは昭和十九年五月のことでした。 あとから考えてみると 、 この引っ越しはまった<命拾いになりました。というのも 、 その直後の東 京大空襲で 、 私の医院を含めた周辺は、一面の焼野原になったか らです。 「人間万 事塞翁が馬」なと といいますが、まったく人生はわからないも です 。 神ならぬ私のこと 、 ほんの少し後に、それまで 住んで たところが一面の焼野原になるなどという が想像で きるわけがあり ません 。 しかし、計 画道路にかかって 、 その結果として田舎に引っ込む 、 これはやはり何かの運命の糸に操られていたと 32
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