この子らを救わん 愛の「おぎゃー献金」物語
のために 、市 内の医院 、 病院のどこにも薬がないという絶望的な状況です。そのときに大いに役立っ たのが私が疎開の荷物の中に持っていた薬です。これだ けは私の医 師としての財産だと思 って東京か ら持ってきた薬(サルファ剤トリアノソ)が思いがけないときに役に立ったというわけです。 今なら、こわい伝染病といってもすぐに設備の整った病院に隔離するなり、特効薬をどんどん使っ て菌の拡大を防いだり治療したりが可能ですし、そうめったに死亡することもありません 。 しかし 、 戦争で何もかもなくしてしまい 、 今のような栄養分も十分とれない当時としては、伝染病にかかるこ とは即ち死を意味していたといっても過言ではないでしょ 。 それが、私の持っていた薬のおかげで助か たというので大いに感謝されました。私としても久方 ぶりに医師としての充足感にひたっ といえます。この事件のおかげで、私の医師としての地域への 溶け込み方もスムーズになったようでし 。なにせ、妻の父母が住んでいる土地であり、そこに疎開 していた妻を頼ってやっ きた他所者に過 ぎな い私です。いわば運命共同体のように春らしている人 々の中 に赤の 他人が入 り込むのですから「さあ、どうぞ 」とい うわけにはゆきません。 特に鹿児島県はそうした地域の結束の固い土地柄です。三姉妹の両親 、そうした背景の中でいと こ同士結婚したのであ 、 これは同県人である私にとってもよく理解できました。 他所者の医師である私が、移って半年も経たずして開業できたのも、つまりはこの事件があったが ゆえ、といえるかも れません。当時、大口市と限りませんが、地方での産婦人科医というのは「八 34
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